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前回に続いて今回もイタリアの話です。
人口400人の小さなまち出身の、あるイタリア人の友人の話を続けます。彼は、クリスマスと新年の二週間ちょっとの間もちろん、勤務先のあるミラノからウンブリアの実家に帰って過ごしました。今年の冬はヨーロッパでは15年ぶりの寒波。その影響で普段は雪はあまり降らないそのまちにも、年末、15センチほどの積雪があったそうです。久しぶりに雪を見た彼はなんだか嬉しくなって、まちの小さな広場に出ました。すると、広場には彼の幼なじみたちがすでに集まっていて、雪合が始まっていました。そこで彼もそれに加わり、皆、動けなくなるまで続いたそうです(ちなみに彼らは28ー30歳)。
それを聞いて、あーうらやましいな、と思いました。東京だったらこんなことってなかなかありえないでしょう。何かに感動して、誰かとこの場でこの経験を共有したいなと思っても、なかなかそう簡単にはいかないですよね。家族のいる人は家族の人と共有もできますが、そうでなければせいぜい友達に“ねえ、ねえ”と電話をかけるくらいです。
一方でそのイタリアの小さな町では、何百年も前からの広場を中心としたコミュニティの暮しが現代になってもまだ続いているんですね。これって何でもないことのようで、すごいことだと思うのです。ここで、また前回と同じ質問に行き着きます。どうしてこの国では大都市化に吸引されることなく、こうした小さな社会が、決して派手ではなくとも、脈々と大地に根を張って存在し続けるのでしょうか? 人々の愛郷心? 確かに愛の力は強いけれど、やはりこの現代、愛だけでは食べてはいけないのが現実。人の心、社会経済のしくみ、現在多くのことがアンバランスであるように見える日本に身を置く私は、こうしてますますイタリアへの好奇心を深めてゆきます。
もちろん、小さいまちに住んでいることはイタリアでもいいことばかりではありません。やはり、人間の心理は万国共通、小さいまちでは世界が狭い分、他人のうわさ話がよくされたり、隣の家との見栄競争などもあるようです。実際その友人の彼も、“BMWが欲しい、車としても優れているし、まちの皆からも、僕がミラノで成功していると認められるし”と、無邪気に言っています...
確かに大都市の他人の目のない自由な生活は、それ自体はとても楽です。でも、そのコインを裏返してみると、身勝手さと孤独が見えてきます。そのような多々の利点欠点を踏まえて、小さい社会に住むか、都会に住むかの選択は個人個人にあるわけですが、日本ではゼロ成長の時代に入り、最近やっとその選択をできるような状態の入口にたち始めたかなあ、と思う今日このごろです。
どうぞ1997年も気づきに恵まれ、そしてそれが行動に結びつくような、良い一年でありますように。
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