連載ストーリー・ベトナム黙示録

▲ビリから走り始めたマラソンランナ−            

(第二次ベトナムブ−ムがやって来た)

1994年2月4日、ホ−チミン市でもハノイ市でも号外が出た。アメリカがベトナムに対して20年にわたった経済封鎖をついに解除した日である。これでベトナムは本当の意味でベトナム戦争が集結し、ドイモイ政策が国際的に認知され、ドイモイ政策の仕上げが可能になったのである。1987年ドイモイ政策が取られ、社会主義市場経済路線が確立した。しかしアメリカの経済封鎖があるかぎり、外資の導入には制約がある。ドイモイ政策に転向して以来資本主義国からの資本の導入はあったがもっぱら東南アジア資本が中心でその中でも家人を中心とする地縁、血縁関係のものが多かった。あとは日本政府を始め、西側各国政府のODAがらみのもので、ベトナムの経済復興に果たす役割はあまりインパクトのあるものではなかった。その中でアメリカの経済封鎖の解除の持つ意味は大きい。     

ベトナムにとって日本を始め西側諸国の経済支援は大きいが、それ以上にベトナムにとって大きな経済的なパワ−が大きく思われるのはアメリカなのである。アメリカはベトナムにとっては単に経済的な面だけでは無く、その持つ軍事的パワ−も大きな魅力なのである。このアメリカが経済封鎖を解き、ベトナムにもう一度帰ってくることはベトナム社会主義共和国を認知し、経済的なお墨付きを与えるのと同じなのである。アメリカの経済封鎖解除のその日からアメリカの企業群はダイナミックに行動を開始した。この経済封鎖解除の動きはアメリカの企業群とぴったり連動している。水面下では1年も前から政財官が一体となって満を持していたのである。    

コカコ−ラが現地生産をただちに行うと発表し、ペプシもすぐ追随した。マ−ルボロで知られるフィリップモ−リス社も過去は不問に付して合弁でマ−ルボロを生産すると発表した。このはなしはすこしややこしい。ベトナムは20年前マ−ルボロの工場を接収した後、国営会社で何とマ−ルボロを生産していたのである。西側諸国にとっては偽造というわけだが、作っている方はそんなことは何とも思っていない。なんとタイやカンボジャラオスなどへも輸出していたといわれる。ところが今度は過去は不問に付して新たにマ−ルボロを作ることになったのだ。認知されないマ−ルボロが正規のマ−ルボロになったのである。またこれよりも早くアメリカの石油会社は潜行してダミ−を使ってすでにオフショアで油田の開発を行っていた。            

その点、日本の企業は早くから国交を回復していたのに行動は鈍かった。大手商社の大半が時期尚早という判断をしていたし、日本からの企業の投資も警戒心の方が旺盛でブレ−キ役をつとめていた。一方ではそのような商社の動きはベトナムを自分の庭にしておきたかったからだとの見方もある。したがって大手の行動はほとんどが日本政府の経済援助やODAがらみのもので直接企業が乗り出していたところは中小企業やゲリラまがいの企業であった。アメリカは経済封鎖解除と共に大手企業の経営陣がミッションを組んで大挙してベトナム入りをしたが、同時に法律家、会計事務所のメンバ−を一緒に連れてきている。日本顔まけの株式会社アメリカの登場である。ベトナム経済はこれで一気にム−ドが変わり、もはやドイモイ政策とついになった市場経済は後戻りできないところに来た。国民もこれで安心感が出たのだろう。退蔵していたドルを徐々に表にだし、経済はこれまで以上に躍進の道をたどり始めた。                  

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